1987年、所沢キャンパスの設計を手掛けられたのが、当時、 理工学部教授を務められていた池原義郎先生でした。 2012年、所沢キャンパス25周年記念講演にスピーカーとして招かれた 池原先生は、自然保護地域における開発でご苦労されたこと、 所沢キャンパス全体を貫く自身の設計思想について、 そして、設計現場での奮闘ぶりを当事者ならではの視点で語られました。

自然を回復しながら、 キャンパスを開発する

 ある日、理事のお一人から、狭山湖の北側に位置する広大な敷地に新設される人間科学部のキャンパスの設計をお願いしたいという内容のお電話をいただきました。管轄である所沢市との交渉により、この地区は自然保護地域に指定されているが、早稲田大学がそれを充分理解した上でキャンパスづくりに取り組むなら、施設計画を出してくれということになったと説明を受けました。狭山湖は今なお東京の水源を担う貴重な水瓶です。江戸の水事業は家康の時代から始まり、すべてが自然の循環を土台に構築されてきました。昭和初期に貯水池としてつくられた狭山湖もまた、そうした長い時の蓄積と流れを汲む現代の水循環の宝物の一つであり、そこを取り巻く自然環境は絶対に保護しなければなりません。

 そこで私たちはスケジュールを見合わせながら、全体計画を二期に分けて工期を設定しようと考えました。計画を一気に進めると自然へのダメージが大きくなるからです。所沢市からは開発面積の60%の自然を残すように求められました。事前の調査によって自然化した森林ゾーンと農地──そのほとんどが耕作されていない休耕地からなっていることがわかりました。そこで開発を進める中で、休耕地などの自然を復元することで、85%の自然ゾーンを目指す計画が完成しました。これは所沢市が指示した60%を大きく上回る数字です。緑の回復には10年、20年かかると予測されましたが、現在、85%の目標値がほぼ達成されたとの結果が出ています。

 

ぐるっと渦を巻くように配置された所沢キャンパスの建物

 

 

狭山湖から連続する自然環境を損なわないよう、敷地の85%の自然ゾーンを確保 するキャンパス計画が進められた

森の中に都市の回廊をつくる

 さて、今、みなさんがいらっしゃる100号館の大教室ですが、ここは100号館を入り250m続く長いロビーのいちばん奥に位置しています。ロビーに沿って教室がずらっと並んでおり、入り口から小さい教室がだんだんと大きくなる構造となっています。しかし、この計画は当初からずいぶんとご批判を受けました。当時理事を務め、後に総長になられた故・小山宙丸先生──、彼とは早稲田大学高等学院時代の同級生ですが、彼が夜中に電話をかけてこられて「工費が少ないのにあんな無駄なものは許されない。言うことを聞いてくれないと夜も眠れない」とおっしゃるのです。その時は「私のほうこそ、こんな電話をもらっては眠れない」などといい加減なやりとりをしながら、ここは、森の中の都市の回廊で絶対に必要なんだと申し上げました。ここを短く収めることはできますが、そうするとこちら側がすべて壁になってしまう。これだけ広い空間がありながら、なぜ壁で塞いでしまうのかとご説明したのです。

 この長いロビーの幅や厚みが変化していくのは、人が溜まる場所をつくるための工夫です。言わば、学生たちが自由に使える街のような構造を目指したのです。ロビーを歩いていくと窓の外に坪庭のような緑が顔を出してきます。ここは校舎でコの字に囲まれた中庭ですが、緑が奥の森の風景につながっていく非常に重要な場所となっています。

 高層部は主に研究室や実習室が入っていますが、ここは中心の建物が渦を巻くように上昇して見えるように設計しました。そして、手前の低層群を一緒に捲き込んで上昇を続けていく大きな流れを形成しています。これは単に形だけではなく、建物の中の施設など機能的なものを抱き込んで上昇しているのです。この100号館は、壁式ラーメン構造でつくられています。従来のラーメン構造では渦巻く空間の流動性が表現できず、壁式構造では構造面でいろいろな制約が生まれる。そこで構造設計の田中彌壽雄先生から壁式ラーメン構造でやりましょうと提案されたのです。これによって段々と上がっていく上昇性と渦を巻く循環性が両立できることになりました。

 

250 メートルの長いロビー。 右側に教室 が並ぶ

 

 

壁が重なるようにして立ち上がる高層部

入り来たらん者には英知を、 去る者には勇気を、力を

 キャンパスの入り口、バスのロータリーの所に「人とペガサス」の像があります。これはスウェーデン出身の彫刻家、カール・ミレスによる作品です。若い学生たちに生命力を与えようという考えから、抽象ではなく具象の作品を選びました。この像は青年とペガサスが何かを求めて飛び回っているところを表現しています。彫刻本体が8000万円。すべてを含めると1億円になる計算でした。当初から大学側の援助はもらわずに自分たちで集めようと思っていました。大学からは、お金が集まらなくても大学からは出せないと言われていましたが、寄付が1億円を超えて集まったのです。そうすると、余ったお金を使わせてくれないかと言ってきました。私たちが集めたお金だから私たちが使います。お渡しできませんとご返事申し上げました。こうしてできあがったのが、人とペガサス像周辺の森なのです。

 

「人とペガサス」の像

 

 バスターミナルから校舎へと向かうアプローチの橋は、今そこにおられる河野健昇先生に設計していただきました。できるだけ軽く空中を歩くように、薄くつくっていただきました。幾何学的な断面形を持った柱とし、梁と柱を一本にしてスピード感を感じさせるデザインにまとめあげました。

 100号館、つまり中庭への入り口ですが、頭上を重たい梁が走っています。ここを視覚的に軽くするためにディティールを加えている、要するに削っているわけです。ここを通り抜けると校舎への3つの入り口が順番に現れますが、ここの壁をずらして配置することで軽く見せています。皆さんからは、なぜこんなディティールを与えるのですかとよく聞かれますが、これは単なる装飾ではなくて、全体の中で壁の重量を調整しているのです。

 中庭に面して学生たちの食堂があります。そして、この入り口の梁をよく見るとステンレスでできた文字が貼ってあります。ラテン語で「SAPIENTIA INTRANTIBVS VIRTVS EXEVNTIBVS」(入り来たらん者には英知を、去る者には勇気を、力を)という意味の言葉です。これは、われわれから小山宙丸先生への宿題でした。小山先生は哲学者です。フンボルト大学の研究生になるほどの語学力の持ち主でした。この言葉をラテン語に翻訳してほしいと。これは我々の仇討ちのようなものでしたが、学生たちに送る言葉をあそこに打ち込んだのです。

 

学生食堂の入り口に掲げられたラテン語のメッセージ

 

 

出展
早稲田大学所沢キャンパス25周年記念講演(2012年5月23日)より

池原義郎

IKEHARA, Yoshiro池原義郎早稲田大学栄誉フェロー・名誉教授

1928年3月、東京に生まれる。1951年、早稲田大学建築学科卒業。1953年、同大学院卒業。卒業後は山下寿郎設計事務所に入所。3年後の1956年、早稲田大学建築学科今井兼次研究室の助手として今井兼次に師事。講師、助教授を経て1971年、早稲田大学教授就任。《所沢聖地霊園》(1973)で日本建築学会賞受賞。1988年、池原義郎・建築設計事務所設立。早稲田大学所沢キャンパスにて1988年日本芸術院賞、大隈学術記念賞受賞。《白浜中学校》(1970)や《勝浦の病院》(1983)、《西武遊園地》(1981)、《箱根湯の花温泉ホテル》(1988)、《成城の家》(1978)など多彩な建築を手掛けている。稲門建築会特別功労賞メダルのデザイン(1998年)も行っている。早稲田大学名誉教授、日本芸術院会員、重慶建築大学名誉教授。2011年6月15日早稲田大学栄誉フェロー。2017年5月20日逝去。